short short story 003
「はぐ」
と呼ばれて僕はすぐには反応できなかった。
その前に彼女からそう呼ばれたのはもうずいぶんと昔のことだ。
どうして彼女が僕のことを久し振りにそう呼んだかはすぐにわかった。
ちょうど店に入る時にすれ違った女性が嬉しそうに
「はぐ、はぐ」と言っていたからだろう。
それを聞いて彼女は昔の事を思い出し、僕にそのできの悪い犬のような名前で呼びかけた。
「 なんだよ。ちぐ。」
僕らがちぐはぐしていた時代。
僕が味噌汁を飲みたいと言えば彼女がカレーを作り始めていた時代。
じゃあ試しに「ちぐ」と「はぐ」を交換して呼んでみようか、と言って余計にちぐはぐした時代。
偶然すれ違った女性のせい、というかおかげで僕らは昔の事を語り合う事にした。
場所は白川沿いにあるプーズカフェ。
店内は空いていて、時間は空に置き忘れられた雲のように止まっているようで確実に動いていた。
「ちぐ」と「はぐ」がようやくお互いの必要性に気付き始めた頃、
僕は彼女に話をした。
ただ川に石を投げ込むような意味も無い暇つぶしの話だった。
「 月の裏側って地球からは見えないんだ。
月は地球と公転と自転の周期が全く同じなんだ。知ってた?」
「知らなかった。」彼女はそう言って目だけ上を向いて黙ってしまった。
きっと頭の中で二つの球体がグルグルしていることだろう。
「 つまりこういう事だ。」
僕は彼女を立たせ、僕は彼女から少し離れた所に立った。
「君が地球。僕が月。」
「なんだかどこかの神話みたいなセリフね。」彼女はふふっと笑った。
「 そうだな、素敵だ。君が地球。僕が月。
さあ始めよう。」
僕は彼女の周りをゆっくりと周り始めた。そして元の場所に戻ると足を止めた。
「 どう?僕は自転と公転をした。わかってもらえたかな?」
彼女は少し口を持ち上げて、ひとつわかった事がある、と言った。
「 ずっとあなたに見られていて気持ち悪いわ。」悪戯っぽく彼女は笑った。
「 それは仕方無い。君が地球で僕は月だ。」
でも・・・ と言って彼女は俯いた。
「 あなたの背中を見られないのは悲しくて、怖いことだわ。」
驚いた事に彼女は泣いていた。僕はそっと彼女を抱きしめた。
「 地球の引力はすさまじい。実際に月は地球の引力でその形を変える。」
「そんな事は聞いてない。こわいのよ。」
「僕の背中に手を回してごらん。見えなくても、その手で感じる事ができるはずだ。」
彼女の手が僕の背中に回りこんで、いろいろな方向に動いた。
「 どう?」
「意外に何もない。」彼女の声はスッキリしたようだった。
「 人類も初めて月の裏側を見た時にそう思ったに違いない。そんなもんだ。」
そこまで僕らは語り合うと、思い出話はそこで打ち切られた。
お互い恥ずかしかったのかもしれない。
「 ねえ、月?」それでも彼女は僕の事をそう呼んだ。
「 なんだ。地球。」
「あなた、顔が少し変形したんじゃない?」
「そりゃ、六十歳も過ぎればそうなるさ。それに、地球の引力はすさまじい。
四十年も一緒にいるんだ。そりゃそうなるさ。」
しかし、こんな昔話になるなんて。不思議な店に来てしまったものだ。
僕はもう一度この店の名前を探した。『プーズカフェ』
旧ソ連の月探査機「ルナ3号」が初めて月の裏側を撮影したのが、
今からちょうど50年前の195 9年の出来事。
文・市川剛史
と呼ばれて僕はすぐには反応できなかった。
その前に彼女からそう呼ばれたのはもうずいぶんと昔のことだ。
どうして彼女が僕のことを久し振りにそう呼んだかはすぐにわかった。
ちょうど店に入る時にすれ違った女性が嬉しそうに
「はぐ、はぐ」と言っていたからだろう。
それを聞いて彼女は昔の事を思い出し、僕にそのできの悪い犬のような名前で呼びかけた。
「 なんだよ。ちぐ。」
僕らがちぐはぐしていた時代。
僕が味噌汁を飲みたいと言えば彼女がカレーを作り始めていた時代。
じゃあ試しに「ちぐ」と「はぐ」を交換して呼んでみようか、と言って余計にちぐはぐした時代。
偶然すれ違った女性のせい、というかおかげで僕らは昔の事を語り合う事にした。
場所は白川沿いにあるプーズカフェ。
店内は空いていて、時間は空に置き忘れられた雲のように止まっているようで確実に動いていた。
「ちぐ」と「はぐ」がようやくお互いの必要性に気付き始めた頃、
僕は彼女に話をした。
ただ川に石を投げ込むような意味も無い暇つぶしの話だった。
「 月の裏側って地球からは見えないんだ。
月は地球と公転と自転の周期が全く同じなんだ。知ってた?」
「知らなかった。」彼女はそう言って目だけ上を向いて黙ってしまった。
きっと頭の中で二つの球体がグルグルしていることだろう。
「 つまりこういう事だ。」
僕は彼女を立たせ、僕は彼女から少し離れた所に立った。
「君が地球。僕が月。」
「なんだかどこかの神話みたいなセリフね。」彼女はふふっと笑った。
「 そうだな、素敵だ。君が地球。僕が月。
さあ始めよう。」
僕は彼女の周りをゆっくりと周り始めた。そして元の場所に戻ると足を止めた。
「 どう?僕は自転と公転をした。わかってもらえたかな?」
彼女は少し口を持ち上げて、ひとつわかった事がある、と言った。
「 ずっとあなたに見られていて気持ち悪いわ。」悪戯っぽく彼女は笑った。
「 それは仕方無い。君が地球で僕は月だ。」
でも・・・ と言って彼女は俯いた。
「 あなたの背中を見られないのは悲しくて、怖いことだわ。」
驚いた事に彼女は泣いていた。僕はそっと彼女を抱きしめた。
「 地球の引力はすさまじい。実際に月は地球の引力でその形を変える。」
「そんな事は聞いてない。こわいのよ。」
「僕の背中に手を回してごらん。見えなくても、その手で感じる事ができるはずだ。」
彼女の手が僕の背中に回りこんで、いろいろな方向に動いた。
「 どう?」
「意外に何もない。」彼女の声はスッキリしたようだった。
「 人類も初めて月の裏側を見た時にそう思ったに違いない。そんなもんだ。」
そこまで僕らは語り合うと、思い出話はそこで打ち切られた。
お互い恥ずかしかったのかもしれない。
「 ねえ、月?」それでも彼女は僕の事をそう呼んだ。
「 なんだ。地球。」
「あなた、顔が少し変形したんじゃない?」
「そりゃ、六十歳も過ぎればそうなるさ。それに、地球の引力はすさまじい。
四十年も一緒にいるんだ。そりゃそうなるさ。」
しかし、こんな昔話になるなんて。不思議な店に来てしまったものだ。
僕はもう一度この店の名前を探した。『プーズカフェ』
旧ソ連の月探査機「ルナ3号」が初めて月の裏側を撮影したのが、
今からちょうど50年前の195 9年の出来事。
文・市川剛史
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